日本音楽教育学会『音楽教育実践ジャーナル』
日本のデジタル教科書改良に関する提案 ―韓国視察,日韓デジタル教科書比較を通じて―
日本音楽教育学会『音楽教育実践ジャーナル』 特集【音楽教育と電子テクノロジー ─「共有」と「発信」を目指して ─】(Vol.11 no.2, 2014)
1 はじめに
韓国は,教育の情報化をダイナミックに進めてきた国として国際的に知られている。政府出資機関である韓国教育学術情報院(KERIS)が,教員に対するICT研修のカリキュラムの開発や,電子教材の制作を担い,教員による電子教材の制作も盛んに行われている(趙 2010,金 2010)。また,デジタル教科書の開発にもいち早く取り組んでおり,2015年までに小中高等学校すべての教科のデジタル教科書が開発される予定である(趙 2011)。
一方,私が2010年に〈韓日合同音楽教育セミナー〉に参加するためにソウルを訪れた際には,ICTに関する研究発表はほとんど見られず,ICT活用先進国というイメージはなかった。日本と同じように,韓国でも音楽科のICT活用は他教科より遅れているのだろうか。実際,学校の音楽授業においてデジタル教科書は使われているのだろうか。メディアを通じて入ってくる世界に先行するイメージと,私の見聞との違いをどう解釈すればよいのかと思案していた時,韓国の音楽授業を視察する機会を得た。
本稿では,この視察の様子やその後に入手した韓国の中学校音楽デジタル教科書について報告し,それらを踏まえ,日本の音楽デジタル教科書を改良する際の要件について示唆したい。なお,ここでは指導者用デジタル教科書に限定する。
2 韓国の音楽授業におけるデジタル教科書
2013年3月,私は堀田龍也氏,坂本暁美氏とGaeWon中学校,YumKwang高等学校を訪れた。GaeWon中学校では音楽専科の女性教員,Kim Deok Im氏からデジタル教科書の活用について話を聞いた(写真1)。
Kim Deok Im氏が授業中に行っているデジタル教科書の活用例をまとめると,以下のとおりである。
歌唱:音楽室のスクリーンにデジタル教科書を投影して楽譜を拡大表示し,楽曲(模範歌唱)の再生,楽曲のパート別の再生,伴奏の再生を行う。国内外の民謡などの模範歌唱を聴かせる。
器楽:韓国の伝統的な楽器,タンソ(笛)の運指,その他の伝統楽器の演奏映像を提示する。
創作:生徒が各自のスマートフォンに入っている音楽アプリを使用し,作曲する。
鑑賞:デジタル教科書に掲載されている楽曲,教員のためのポータル(支援)サイト(edunet4u.netなど)に載っている楽曲,YouTubeの音源(および映像)を活用する。
当日のインタビューによれば,日本と異なり,韓国ではデジタル教科書に関して指導者用と学習者用の区別がない。中学校音楽デジタル教科書は12社から発売されており(2013年3月現在),教師自身がその中から選択しているという。
Kim Deok Im氏は,「私はデジタル人間ではないが,子どもたちがとてもICTに馴染んでいるので,授業に取り入れている」と話した。生徒たちは学習内容の確認テストを行うために各自のスマートフォンを学校に持参しており,アプリを使った作曲が可能となっている。日本ではまだ見られない光景である。
写真1 GaeWon中学校の音楽室
翌日は,YumKwang高等学校の音楽専科の男性教員,Kim DaeSung氏の授業を見学し,インタビューを実施した(写真2)。このYumKwang高等学校は,前日に訪問したGaeWon中学校が一般的な学校であるのと比べて,有名な管楽器バンドを有する伝統校である。
見学した2部合唱の授業では,楽譜をスクリーンに映し,1つの声部のみを聴かせたり,楽譜内の特定の部分を拡大していた。Kim DaeSung氏は,年度毎に行われているデジタル教科書の改良にも関わっているという。
写真2 YumKwang高等学校でのミーティング
訪問したのはわすが2校だったが,韓国の音楽デジタル教科書の活用状況を肌で感じることができた。従前の指導技術だけで十分に生徒を牽引していくことができる専科教員が,積極的にデジタル教科書を使っていることや,「新しいものがあれば,とりあえず使ってみる」という気質が印象に残った。
3 日韓の音楽デジタル教科書の比較
帰国後,韓国の音楽デジタル教科書の内容を詳しく知りたいと思い,『음악(音楽)』(음악과생활 音楽と生活社)を入手した(写真3)。日本ではまだ『中学生の音楽』(教育芸術社)の指導者用が発売されているのみであり,言語の壁もあったため,日韓それぞれ一社ずつ,中学校1年生用を比較することにした。分析はインターフェイスとリンク1)を対象とし,坂本暁美氏が行った。
1)テキスト内のある場所をクリックあるいはタッチすると,他の文書や画像,音声などに飛ぶ機能。
写真3 『음악(音楽)』(음악과생활 音楽と生活社)
日韓いずれのデジタル教科書も,紙の教科書と同じものが画面に表示され,ページの拡大,ペンによるメモの書き込みができ,他のコンテンツにリンクするようになっている。画面の楽譜をクリックすると楽曲の範唱・範奏が再生されたり,リコーダー(やタンソ)の運指や作曲家などの説明が表示される点は両国共通である。
総リンク数は,『中学生の音楽1』(以下,日本版という)と『음악(音楽)第1学年』(以下,韓国版という),それぞれ231,277であった。次に,表1にリンク先のコンテンツの種類,表2にリンク先の音の種類を示す(坂本ら 2013)。
表1 リンク先のコンテンツの種類
表2 リンク先の音の種類
最も注目すべき点は,音楽の再生に関して,日本版では大抵MIDIを採用しているのに対し,韓国版では実際の楽器音や声,つまりAudioが使用されていることである。
日本版では,別売の鑑賞曲CD,指導用CDを連動再生させる方式をとっており,韓国版ではデジタル教科書それ自体から楽器音や声が再生される。そのため,デジタル教科書内の数だけでAudioとMIDIとの割合を単純に比較することはできないが,2部合唱などのパート別再生音が,日本版では無味乾燥なMIDIであることは残念である。
また,韓国版では,たとえば2部合唱曲の場合,歌(上声部)+伴奏,歌(下声部)+伴奏,歌(上下声部)+伴奏といったように,数種類の再生パターンがある(写真4)。
写真4 2部合唱における数種類の再生パターン
その他の相違点として,日本版では,歌詞の朗読,指揮棒の振り方のアニメーションがあること,韓国版では,音楽を再生すると同時に教科書の画面がズームアップすることなどが挙げられる。また,韓国版では,ディズニーの音楽,マイケル・ジャクソン,マドンナなどの楽曲がデジタル教科書内で再生される。
4 日本のデジタル教科書を改良する際の要件
以上の視察や分析を踏まえ,日本の音楽デジタル教科書を改良する際の要件を提案する。
4.1音楽科教育関係者の英知を結集する
坂本らは,3で述べたようなリンクに関する分析を行った後,日本版における問題点をまとめ,制作側に改善を求める予定にしていた。だが,私は現在その意欲を失いかけている。
その理由は2つある。1つは,デジタル教科書の開発には,国の施策,著作権法,現在の市場規模で教科書会社が投資可能な予算の限界など,多くの問題や利害が絡んでおり,一研究グループの提案は無効とまでは言わないが,あまりに無力であるからだ。
もう1つは,より多くの研究者や教員が協力しなければ,音楽デジタル教科書を良い方向に進めるのは難しいと感じたからである。
坂本らは教育工学的見地からリンクに焦点を当て,分析したが,音楽科教育の関係者が韓国版のデジタル教科書を見た時,興味を持つ項目や内容は様々であるに違いない。おそらく掲載されている諸外国の音楽の種類,伝統音楽の扱い方,笛の指導法など,多岐にわたるはずである。さらにそれを踏まえた日本版への提案の項目や内容もまた同様に様々であるだろう。
こうした異なる知識や関心を持つ者の意見を結集してこそ初めて,韓国に見られるようなデジタル教科書のダイナミックかつ迅速な改良が可能になると感じる。
4.2『オンライン音楽室』2)を最低基準に
2)平成12(2000)年度文部科学省教育コンテンツ開発事業として制作された,音楽教育用コンテンツ配信サイト。
韓国版と比べ,日本版で最も改善が必要な点は,範唱・範奏が無味乾燥なMIDI音で再生されること,再生パターンにヴァリエーションがないことである。しかし,これらについては,『オンライン音楽室』(FUKAMI 2003)において,既に実現していたことはあまり知られていない。
このコンテンツは,2000年に教育芸術社の教科書を元に作られたものである。高速ネットワーク環境が整っていなかった当時の小学校ではほとんど使われることなく,制作会社の解散などによって現在では閲覧することはできないが,範唱・範奏データはaudioであり,再生パターンにヴァリエーションがあるばかりではなく,学習段階別になっていた(写真5)。また,今回調査した韓国版でも実現できていない移調が可能であった(写真6)。さらに,表現を工夫するために比較聴取もできるようになっていた。
写真5 2部合唱をステップ別に練習できる画面
写真6 テンポの変更と移調ができる画面
デジタル教科書を改良するのであれば,『オンライン音楽室』を最低基準にしなければ良いものにはならないと感じる。デジタル技術が進んだ現在,14年も前に制作されたこのコンテンツを超えることができないという理由は,私には考えにくい。
4.3 デジタル教科書を使用した授業手法等の開発の必要性
1990年代,音楽科教育の関係者は,DTM(デスクトップミュージック)の実践例は多く発表していたが,全教科的な取り組みには熱心ではなかった。2000年代に入ってからは,全教科的な取り組み,たとえば「教育情報ナショナルセンター(NICER)」3)におけるコンテンツ開発といったような試みは言うに及ばず,DTMの実践さえほとんど行わなくなった。現在では,デジタル教科書の研究会などに顔を出す音楽科教育の関係者は皆無に近い。つまり,教科を超えたICTの取り組みにも参加しない,音楽科独自のICT活用も行わないという状況に陥っている。
3)インターネット上にある教育・学習情報を整理し,提供していた機関。学年,教科,分野,領域別に求める情報を選ぶことができたが,2012年に閉鎖した。(National Information Center for Educational Resources)
確かに学習者用デジタル教科書やタブレット端末の導入には課題が山積しているが,先に述べたデジタル教科書そのものに対する提案や,指導者用のデジタル教科書を使った音楽授業手法を開発すること,音楽科を担当する教員にとって使いやすいクラウド化を考えることは,音楽科教育の関係者がやらなければ,誰がやるのだろう。
5 おわりに
韓国でも全面的にデジタル教科書に置き換えることは望ましくないといった意見も根強く,ある調査によれば,全面導入に肯定的40%強,否定的が30%強,態度保留が30%弱という結果が出ている。また,世界に先行したばかりに,タブレットPCの急激な普及という予期せぬ事態に直面し,PCでの使用を前提に開発されていた学習者用のデジタル教科書に関しては,計画の修正を余儀なくされているという(eラーニング戦略研究所 2012)。
ひるがえって日本の場合は,音楽科教育の研究者のデジタル教科書に対する関心は指導者用に対してさえ極めて低く,デジタル教科書に対して意見を述べる段階にも至っていない。諸外国の音楽教科書研究は盛んであるのに,諸外国のデジタル音楽教科書には無関心なのはどうしてなのだろう。
これからの学校の音楽の授業を良いものにしようとする時,日本の音楽デジタル教科書がこのままでよいとは決して思えないはずである。教育現場からの要望を取り入れ,年度毎に改良をしている韓国の状況を見た私は,本学会が音楽デジタル教科書の改良に向けて動くことを切望する。
本稿での調査は,平成24年度−26年度科学研究費補助金基盤研究(C)「音楽科の学力を育成するためのデジタル教科書の在り方」(課題番号24501227 研究代表者 坂本暁美)の助成を受けている。
韓国の音楽デジタル教科書の入手に際しては,釜山教育大学のYang Jong Mo氏,島根大学の藤井浩基氏の協力を得た。
【引用・参考文献】
FUKAMI, Yukiko. (2003). “Introducing “On- lineMusic Room”: Japanese leading internet-contents for music education” Journal of Music Education Science (韓国コンピュータ音楽教育研究)Vol.2,pp.221-236.
eラーニング戦略研究所(2012)「韓国におけるデジタル教科書導入に関する意識調査報告書」p.26,インターネット(2013/12/30にアクセス)
金シミン(2010)「韓国のデジタル教科書事情」『教育テスト研究センター 第19回研究会報告書』インターネット(2013/12/30にアクセス)
坂本暁美・堀田龍也・深見友紀子・田中龍三(2013)「日韓の音楽科デジタル教科書の『リンク』に関する比較分析」『日本教育工学会第29回全国大会講演論文集』pp.715-716.
趙章恩(2010)「韓国デジタル教科書事情(1)─15年かけて築いてきた教育情報化が花開く─」 「韓国デジタル教科書事情(2)─電子黒板は当たり前,10Gbpsネットワークで教室情報化─」インターネット(2013/12/30 にアクセス)
趙章恩(2011)「韓国,2015年までにすべての小中高にデジタル教科書を導入」インターネット(2013/12/30にアクセス)
日本音楽教育学会『音楽教育実践ジャーナル』 特集【音楽教育と電子テクノロジー ─「共有」と「発信」を目指して ─】(Vol.11 no.2, 2014)