3月25日
3月11日、午後2時46分。東日本大震災が起ったとき、私が乗った新幹線は京都を出て、名古屋の少し手前で緊急停止した。
「関東地方で地震のため、緊急停止しました。」(アナウンス)
地震が起ってから15分後の3時5分、東京の我が家の固定電話から私の携帯に、レッスンをしていた中野さんから連絡があった。声は少し震えているようだったが、話の内容から家(教室)は壊れていないことがわかり、その後、家族とも連絡がとれた。
その間に、新幹線は徐行運転して名古屋に停車、さらに徐行運転して豊橋に停車したが、前がつかえているのでそれ以上は動かない。隣の席の男性は、“ホテルアソシア豊橋”を指差して、「今晩はあそこで泊ろうかな」と言い始めた。
上りの新幹線の車中では下りの状況がわからず、車掌は「降りて、改札か向こうのホームで尋ねてください」と言う。自分の体だけ降りて、荷物を載せたまま徐行運転されたら情けないから、仕方なく荷物を持って降りて下りのホームに行くと、30分後に一本到着するらしいことがわかった。
「下り方面に行かれる方は到着した列車に乗ってください。その次の列車はいつ到着するか未定です。」(アナウンス)
豊橋駅の待合室のテレビで三陸海岸が酷いことになっているのを知った時点で、京都に引き返すこと決め、乗車率200%以上の下りに乗って21時台に京都にたどり着いた。
あれから2週間。昨日、震災以来初めて東京に戻ってきた。
東京駅や地下鉄の照明が暗くなっているので海外の都市に来たようだと思ったが、いつもと違うその“色合い”を見て、私は我が家の門灯を17時から翌2時まで自動点灯していることを思い出した。
節電しなければならないのに、京都にいたので気づかなかったのだ。「非国民」っぽい。。。
かなりめげたのだが、早稲田まで来ると逆の思いがした。あらゆる店の看板の照明や電灯が消えると道行く人の気分までもが沈んでしまう・・。
「国の非常時に何事だ」「国の非常時だからこそいつも通りで」この線引きは大変難しい。
きょう電気屋さんと相談して、3つの電灯のうちの1つを消すことにした。「ガラスが割れなくて良かったですねぇ。」4分の距離にあるその電気屋さんの店のガラスは割れたらしい。
半月以上も「あるじ」兼「掃除する人」が不在だったため汚れている玄関
この週末、ミュージック・ラボのレッスンは全部私がやることにした。5歳の女の子は放射能を恐れてヘルメットにサングラス、マスク、手袋といった重装備でレッスンにやってきた(東京は原発から離れているとはいっても、大切な娘を放射能で傷つけたくない気持ち、よくわかる)。それでも、「地震の後、ずっと母娘で家に閉じこもっていたから来てよかった」とママは帰り際に言った。
国の非常時に私が役にたつのはこの程度かもしれない。
子どもにピアノを教えるという日常が戻った。